留学費用、研修費用、資格取得費用など、人材育成のために会社が払った費用について、労働者が返還義務を負わなければならないのかという、退職時によくトラブルになりやすい問題を解説していきます。
例えば、次のような相談事例です。
- 退職トラブルとなり、会社負担と思っていた費用を返すよう請求された
- 「もう少し頑張ってほしい。退職するなら留学費用を返せ」といわれた
- 留学前の誓約書に「5年以内に退職するなら全額負担」と書かれていた
人材育成に熱心な会社は、関係が良好であれば、費用負担なくキャリアアップできるメリットがあります。しかし、留学などの対象者は将来を期待されているため、強い引きとめにあって退職できないなど、ハラスメントを受けるおそれがあります。
多くの相談例では、留学後に一定期間はたらくよう約束させられていたり、帰国後に退職するときは渡航費、授業料を返還するという誓約書、覚書をむすんでいたりします。企業としても目をかけた社員を容易には退職させてくれません。
- 違約金、損害賠償をあらかじめ予定しておくことは法律で禁止されている
- 留学費用などの返還すべきかの判断基準は、業務との関連性が重要
- 裁判例でも、留学費用などの返還を不要と判断したケースあり
なお、退職時の労働問題について深く知りたい方は、次のまとめ解説もご覧ください。
まとめ 退職強要に関するトラブルを弁護士に相談するときの全知識
違約金や損害賠償請求はされない
まず、会社と退職時にどれほどもめたとしても、違約金や損害賠償を請求されることはありません。労働基準法16条が次のとおり、あらかじめ退職時の違約金や損害賠償を決めておくことを禁止しているからです。
これを「賠償予定の禁止」といいます。
労働基準法16条(賠償予定の禁止)
使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。
労働基準法(e-Gov法令検索)
そのため、会社に留学費用、研修費用、資格取得費用などを負担してもらい、その後に会社との約束に反して退職しても、違約金、損害賠償を請求されることはありません。
労使関係では、弱い立場にある労働者が保護されています。あらかじめ違約金や損害賠償を定めてしまうと、お金が払えない労働者が「退職の自由」を奪われ、プレッシャーに負けて会社の言うなりになるおそれがあります。労働基準法は「賠償予定の禁止」を定めることで、「退職するなら違約金を払え」という脅しによる「在職強要」、違約金によって貢献を強要される「お礼奉公」などの問題を未然に防止しているのです。
留学費用などの返還請求に応じるべきかの判断基準
あらかじめ違約金や損害賠償を予定することが禁じられていることは前章のとおりですが、これに対して、人材育成のために払った費用が、退職などによってその目的を果たさなかったとき、実費の一部の返還請求をすることは認められています。
そのため、退職トラブルが起こって、留学費用などの返還を求められると、一定の範囲では返還に応じなければならないおそれがあります。ただし、このときにも返還すべき費用は合理的な範囲に限られます。
返還請求に応じなければならないかは、次の5つの事情を総合考慮して判断されます。
以下で順に解説していきます。
業務との関連性
費用援助の対象となった留学や国内研修、資格取得が、業務との関連性が高いほど、その留学など自体が業務であり、これに対して払ってもらった費用を返還する必要はないと判断されます。留学などによって培った能力や資格を会社内で活かすことが目的であるケースがこれにあたります。
一方で、その留学などが、労働者の一般的な能力向上を目的としていた場合や、遊学のケースなどでは、業務との関連性が低く、退職するのであれば費用は返還すべきと判断される傾向にあります。
労働者の自由意思か、会社の命令か
留学や国内研修、資格取得などが、労働者の自由意思によって行われたものか、それとも、会社の業務命令によるものかといった事情が、その費用負担についての考え方に影響します。
業務命令によって、参加が必須とされているとき、その費用は会社が負担すべきで、労働者が返還する必要はありません。一方で、労働者の自由意思に任されており、自由に応募してよいといった内容であれば、業務性は低く、費用のうち少なくとも一部は労働者が負担すべきです。このとき、退職するならば返還すべきと判断されるおそれがあります。
この点の判断には、留学先や研修先を労働者が自由に選択することができたかどうか、という事情も重要となります。
会社外で活用できる能力が身につくか
留学や研修、資格取得などの中には、会社内で担当業務をするためにしか役立たないものと、会社外でも活用できるものとがあります。会社内でしか役立たない資格、業務遂行に必須の資格などは、業務性が高いと評価され、会社が費用負担すべきであると判断されます。
これに対して、例えば語学留学のように、労働者個人にとってもメリットがあるとき、業務性はその分だけ薄まり、一部は労働者が費用負担すべきであり、退職をするならば返還すべきと判断されやすくなります。
誓約書の内容
会社負担で留学、研修や資格取得を行うとき、「復職後○年以内に退職したときは、その○%を返還する」といった誓約書を締結していることが多いです。
業務性が薄く、労働者の費用負担で行うべき留学などの場合、一旦は会社がお金を出すとしても、単に貸し付けるだけのときがあります。このようなケースでは、上記のような誓約書は、雇用契約(労働契約)とは別の金銭消費貸借契約をむすんだと評価できます。
「消費貸借契約書」という名称の書面を締結したからといって、必ず退職時に返還しなければならないわけではなく、あくまで実質的に判断されます。
業務性が高い留学などについて消費貸借契約に基づいて返還を請求することは、前章で解説した「賠償予定の禁止」(労働基準法16条)に違反し、その契約自体が無効となります。
就業規則などの会社規定が整備されているか
会社に負担してもらった留学費用、研修費用や資格取得費用について、合理的な範囲で実費の返還をしなければならないケースでは、そのことについて、就業規則をはじめとした会社規程に明記されていることが多いです。
留学などがよく行われる会社では、留学規程、研修規程などの別の規程が定められていることもあります。なお、誓約書と同様に、その内容が「賠償予定の禁止」(労働基準法16条)に違反して無効な内容ではないかどうかは、注意する必要があります。
留学費用などの返還が必要なケース・不要なケース
次に、前章で解説した考慮要素をまとめ、返還が必要なケースの例、返還が不要なケースの例を解説します。
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返還が必要なケースの例
前章で解説した考慮要素をまとめると、会社の業務との関連性がないと考えられるのであれば、留学費用などの負担については雇用契約(労働契約)とは切り離して考えることができます。つまり、会社から労働者に対する費用の貸付・返済という消費貸借契約であると評価されます。
このとき、労働者保護のための「賠償予定の禁止」(労働基準法16条)は適用されず、「契約の自由」のルールにしたがって、契約内容を柔軟に定めることができます。そのため、退職時に返還するという定めとなっていれば、これに従って返還に応じなければなりません。
例えば、次のものは、会社に費用負担をしてもらったときは、退職時の返還請求に応じなければならない可能性があります。
- 業務との関連性がなく社外でも活用できる一般的な資格(簿記・英検・TOEICなど)
- 希望者に対して任意参加とする自己啓発セミナー
返還が不要なケースの例
一方で、業務との関連性が強いときには、雇用契約(労働契約)と一連の契約であり、労働者保護がはたらくと考えられます。すると、「退職時に一括で返還させる」というのは、退職時に違約金を課すに等しく、「賠償予定の禁止」(労働契約法16条)に違反し、無効です。
留学や研修によって従業員の能力を上げることは、会社の業務に役立ちます。そのため、これによって利益を受けることのできた会社側として、その費用も負担すべきです。例えば、もっぱら会社のために行うものとして、管理職研修、セクハラ・パワハラ研修、営業実務研修といったものが会社負担となるのは当然です。
なお、費用負担の問題は別として、労働者には「退職の自由」があり、退職自体を妨げられることはありません。
留学費用などの返還について判断した裁判例
留学費用、研修費用、資格取得費用などを退職時に返還する必要があるかどうかについて、前章の判断基準を参考に、個別のケースについて事情に即して検討する必要があります。
この判断の際には、実際の裁判例でどのように判断されているのかを理解することが役立ちます。
そこで、返還が必要と判断した裁判例、不要と判断した裁判例にそれぞれどのようなものがあるか、弁護士が解説します。
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返還が必要と判断した裁判例
長谷工コーポレーション事件(東京地裁平成9年5月26日判決)
長谷工コーポレーション事件(東京地裁平成9年5月26日判決)は、社員留学制度について、人材育成施策の1つであるとしながら、
- 業務命令ではなく社員の自由意志によるものであること
- 留学先の選択が本人の意思に任されていること
- 留学経験は業務に直接役立つわけではなく、社員個人にとって有益な経験となること
といった事情から、労働契約とは別に費用分担に関する契約をしていると判断しました。
そして、留学前にサインした誓約書で、一定期間内に退職したときは会社が負担した留学費を全額返済すると記載されていたことから、これを消費貸借契約であると評価し、「賠償予定の禁止」(労働基準法16条)に違反しておらず、返還が必要であると判断しました。
野村證券事件(東京地裁平成14年4月16日判決)
野村證券事件(東京地裁平成14年4月16日判決)は、留学が労使双方にとってメリットがあるため、一切の返還請求を認めないことには問題があると指摘しました。
そして、労働者側としても退職時に返還の必要があることを理解して留学したのだから、勤務継続などの条件を満たさないときには費用返還が必要であると判断しました。なお、返還する金額については、債務免除までの期間が5年間とされていたところ留学後から退職まで1年10ヶ月であったため、按分計算した留学費用を返還するよう命じました。
返還は不要と判断した裁判例
返還を不要と判断した裁判例には、次のようなものがあります。費用の返還を拒否したい労働者側で、これらの判断のもととなった事情がとても参考になります。
富士重工業事件(東京地裁平成10年3月17日判決)
富士重工業事件(東京地裁平成10年3月17日判決)は、研修への応募が社員の自由意思に委ねられていたものの、業務遂行に役立つ語学力や、海外での業務遂行能力を向上させる点で、研修は社員教育の一部であると判断しました。
また、研修期間中に業務にも従事していたことから、研修費用は会社が負担すべきで、社員が負担すべきではないとし、退職したからといって違約金を課すことは「賠償予定の禁止」(労働基準法16条)に違反して許されないとし、退職時の費用返還は不要と判断しました。
新日本証券事件(東京地裁平成10年9月25日判決)
新日本証券事件(東京地裁平成10年9月25日判決)は、留学は社員の自由意思に委ねられていたものの、
- 職場外研修の1つと位置付けられていたこと
- 専攻科目は会社が指定すること
- 留学期間中も社員と同様の待遇をすること
といった事情から、留学は業務の一貫であると判断しました。
そのため、「留学終了後5年以内に退職したときに留学費用を全額返金させる」旨を定めた留学規程は、社員の早期退職を防ぐものであると評価し、退職時の費用返還は不要であると判断しました。
国家公務員の留学費用の償還に関する法律
国家公務員の留学費用については、「国家公務員の留学費用の償還に関する法律」という法律の定めがあります。
この法律は、上記で紹介した野村證券事件の影響を受け、「留学期間満了後5年以内の退職について、在籍期間を按分した金額の返還を認める」といった労使のバランスをとった内容になっています。
この法律は国家公務員に適用されるもので、民間企業の労働者には適用されませんが、裁判における判断では1つの参考とされる可能性が高いです。
まとめ
今回は、会社の費用負担でおこなわれた留学、国内研修や資格取得の後、退職時にこれらの費用の返還を請求されてしまったとき、費用の返還に応じる必要があるのかどうかについて解説しました。
業務との関連性が強く、会社の命令で受けた研修などの費用を返還する必要はありません。一方で、業務との関連性が弱く、社員の自由な意思が尊重されているような留学などでは、就業規則や誓約書などの定めにしたがって一部を返還しなければならないケースがあります。
重要な判断基準は「業務との関連性」の程度であり、個別のケースに応じた判断が必要です。
当事務所のサポート
弁護士法人浅野総合法律事務所では、労働問題を得意分野としており、労使トラブルに注力してサポートしています。
特に、退職時はトラブルが生じやすく、人材育成のための費用返還の問題は、労働者にとっては相当多額の請求となってしまうこともあります。退職時のトラブルにお悩みの際は、ぜひお早めにご相談ください。
退職トラブルでよくある質問
- 退職するとき、留学費用などの返還をしなければなりませんか?
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退職時に、会社が負担してくれていると思っていた留学費用などを返還するよう命じられることがありますが、応じる必要のないケースもあります。その判断は、業務との関連性の程度がどれほどかによって決まります。もっと詳しく知りたい方は「留学費用などの返還請求に応じるべきかの判断基準」をご覧ください。
- 退職時の留学費用などの返還は不要と判断した裁判例はありますか?
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退職時の費用返還のトラブルは裁判例でも多く争われており、実際に、費用返還は不要として会社の請求を認めなかった裁判例が存在します。詳しく知りたい方は「返還は不要と判断した裁判例」をご覧ください。